赤薔薇の君

 ローレッタ聖王国の王女として生まれた私《わたくし》は社交の場――特にダンスが苦手で仕方がありませんでした。
 家庭教師からは上手だと褒められておりましたし、わたくし自身も必死に練習したので夜会で踊りたいという気持ちもありました。
 ですがそういった場には国中からたくさんの貴族たちが集まってきており、王女という立場もあってか私は注目の的にされてしまい緊張してしまうのです。

「今日も私以外と踊らないつもりか?」
「……はい」

 婚約者のいない私が今までに踊ったことのあるお相手といえば、ダンスの先生以外ではお父様とお兄様たちだけです。
 今日の夜会でも長兄であるグレアム兄さまと踊った後は大人しく座っているつもりでいます。
 私が踊りたがらないことは、この国の貴族たちの間では周知の事実でした。彼らは理由までは知らないようですが、それでもたまに誘われることがあるので、やんわりとお断りさせていただいているのが現状です。

「父上がそろそろお前の婚約者を決めたいと仰っているのだがな。お前の好みがさっぱり分からないせいで選定すら進まない。お前ももう子供ではないのだからしっかりしろ」

 社交の場は人脈作りの場といわれておりますが、年頃の令嬢たちにとっては異性との出会いの場でもあります。
 私は別に異性に興味がないというわけではなく、ただ人前で注目されるのが恥ずかしいだけなのですが、両親にも兄弟にもそのことをうまく伝えられないまま今までの人生を生きてきたのです。

 曲が終わると父の近くへ戻り椅子に腰かけました。今日はいつもより踵の高い靴を履かされたせいもあってか一曲踊るのがやっとです。
 女性の流行というのは移ろいやすいもので、少し前まではビーズで細かな装飾を施された踵の低い靴が流行っていたというのに、今は光沢のある素材で作られた踵の高い靴が貴婦人たちの間で人気があるらしいのです。らしい、というのは私が流行に疎いのが原因でしょうか。

 ふだん身に着けているものは私の好みのものですが、パーティでは流行に合わせたドレスや装飾品を身につけさせらせるのです。王女である私が他の者より貧相な恰好では王家の面目が立たないというのもあるのでしょう。今日のドレスも私が好む淡い色合いのものではなく濃い色合いのドレスです。
 遠目に姿を確認できた幼馴染のメレディスは、炎のような真っ赤な髪の色も相まって濃紺のドレスがよく似合っています。ほかの令嬢たちも赤・青・緑と色とりどりで、皆がそのドレスを気に入っているのであろうことが窺えました。
 パーティがお開きになりようやく自室に戻ると、湯浴みや肌の手入れを一通り済ませ私は大きすぎるとも思える寝台で眠りにつきました。

 それから数か月後、私はお父様に呼び出されある夜会の招待状を渡されました。
 内容を確認するとそれは王都の中心にあるダンスホールで行われる、リリエンソール公爵家主催の仮面舞踏会の招待状でした。
 リリエンソール公爵家といえば王家の遠縁にあたる一族です。最近は騎士団に入って忙しいのか、昔ほど会えずにいる公爵の一人息子ミシェルとも話せるかもしれないので参加したいところですが、舞踏会となるとダンスがメインになってしまします。なのでお断りしようかと口を開こうとしたところで、お父様が先に声をかけてまいりました。

「モンタギューがいうにはお前は人前で踊ることが苦手だそうだからな。仮面で素顔を隠せば少しは気が紛れるだろうから参加して、たまには家族以外とも踊ってきなさい」
「……はい」

 お父様に直接そういわれては断ることもできません。
 それにリリエンソール公爵――モンタギューおじ様が私に気をきかせてくださったのでしょう。身分を気にせずに済む仮面舞踏会という形であれば、名前も身分も隠せるし普段と違った装いで参加すれば誰も私が王女であることに気が付かないかもしれません。

 部屋に戻った後は侍女たちと相談して仮面舞踏会に着ていくドレスや靴、装飾品を選ぶことにしました。
 まずドレスは私だと判らないように、普段の私では絶対に選ばない濃い緑の布で新しく仕立ててもらうことになりました。靴は流行りのものより踵が少し低いものを用意し、装飾品もいつもの夜会では王家に伝わる宝石などを身に着けることになっていますが、今回は身分を隠しての参加なので私個人が所有しているものから選び出しました。
 髪も普段はハーフアップやサイドを編み込んで他は軽く流すものなどが多いのですが、今回は高い位置で結い上げることにしました。

*****

 そして仮面舞踏会当日、私は支度を済ませるといつも出掛ける時に使う馬車とは別の馬車――兄がお忍びで出かける際に使用している王家の紋章を刻んでいない馬車を借りて会場へと向かいました。
 仮面舞踏会という形式上、どこの家が参加しているか判りにくいようにするため家紋などが入っているものは付けないというのが、この国では暗黙のルールとなっているそうです。
 会場に着くと動物を模した仮面を渡されました。連れてきたメイドに着けてもらい鏡を確認すれば、そこに映っていたのは少し生意気そうな猫の仮面をつけた令嬢でした。これでもう私が王女だと気づく者はいないでしょう。

 このダンスホールは聖王国の建築技術の結晶ともいわれるほど荘厳な様式をしております。
 白を基調とし金で縁取られた基本様式に、壁面から天井に至るまで蔦のような細かな装飾が施され、柱一つをとっても豪華な彫刻がなされています。
 今宵は仮面舞踏会という事で柱には大きなリボンや植物で飾り付けがなされ、その優美さに花を添えるかのようです。

 そのようなダンスホールに足を踏み入れても、周りの人々は私のことをどこかの令嬢が来たなという程度の認識で、いつもほど視線を感じないで済んだのもあったのでしょう、肩が少し軽くなった気がしました。
 しかし私はまだ他人とダンスを踊ったことがありません。何人かの男性から視線を感じるので誘うタイミングを見計らっているのでしょう。
 少し怖くなってきましたが、今日わたくしはダンス嫌いを克服しにここへ参ったのです。このような機会を作って下さったモンタギューおじ様の為にも頑張らなくてはいけません。

「こんばんは、美しいお嬢さん。よろしければ私と一曲踊っていただけませんか?」

 目を閉じ一つ呼吸を置きながら静かに自らを鼓舞し、周囲にいらっしゃる方を確認しようと顔を上げたところで目の前に一人の男性が立っておりました。
 体格や声からして私と年齢が近い方のようです。鳥の嘴を模した仮面で目元は隠されていますが、それでもわかるほど整った顔立ちで、誰もが憧れるような美しい金髪が印象的な男性です。胸元には赤薔薇を飾っており、どことなく情熱的な雰囲気を感じました。
 その彼の優しそうな声に私は迷わず差し出された手をとり微笑みをかえしました。

「はい。よろこんで」

 曲が始まり、名も知らない男性とワルツのステップを踏む。大丈夫、先生との練習でも家族とのダンスでも失敗したことはありません。
 まだ少し緊張してしまいますが、彼のリードが上手なのもあって踊りやすく、また、いつものような沢山の視線に晒されていないのも相まって、とても楽しい時間に感じられます。

「こういった場にはあまり参加されないのかな?」
「仮面舞踏会は初めてです。普段は夜会に参加しても家族としか踊らなかったので、慣れていないように見えるのでしたらそのせいかと」
「おや。それでは私は家族以外では初めてのお相手を務めることができましたか。これは嬉しいことを聞けました」
「まぁ、お上手ですのね」

 くすくすと笑いながら他愛もない話をする。距離が近いのでドキドキすることもありますが仮面をつけているので上手く隠せていればいいのですが、お相手の方は女性の扱いに慣れている雰囲気があるので、もし悟られたとしても先ほどのような切り返しをしてくれそうです。
 ここでは仮面のおかげで名前も身分も気にせず、王女ではなく一人の少女として振舞えるのもあるのでしょうか。彼とのダンスはとても楽しい時間を過ごすことができました。
 曲が終わり礼をして彼と別れると次の方からダンスに誘われました。そしてその声には聞き覚えがありました。お父様の従兄弟にあたるモンタギューおじ様――この仮面舞踏会を主催したリリエンソール公爵のものです。

「楽しんでいただけているようで何よりです」

 おじ様と踊っていると、先ほどの男性とのダンスを見られていたのか満足そうな笑みで、そうお声をかけられました。
 軍師であるおじ様には色々とお見通しなのでしょう、それでなくても子供のころからよくお会いするもう一人の父といってもいいかたです。もしかしたらお父様よりも私の事を知っているかもしれません。

「おじ様は随分と可愛らしい仮面をつけていらっしゃいますのね」
「これはですな、すこし愛嬌のある物をつけてみたくなりまして、息子が小さいころ抱いて寝ていたぬいぐるみをモデルに作らせたのです」
「小さい頃の彼がクマのぬいぐるみを抱いて眠る姿はさぞかし愛らしかったでしょうね。そういえば最近はあまりお会いできていないのですが彼の様子はいかがですか?」

 彼のご子息といえばミシェルだけです。幼いころの彼は、女の子と見紛うほどに愛らしい外見をしていた記憶があります。
 今では令嬢がたの人気を一身に集めている氷の貴公子にも人形を抱いて寝ていた時期があったのだと思うと同時に、最近は疎遠になってしまっている彼がどうしているのかが気になりました。
 噂によると婚約者であったメレディスと破局した後は女性をとっかえひっかえし浮名をはせているそうですが、メレディスの新しい婚約者とも親しくしているとも聞いています。
 昔から他の同年代の男の子たちと違った雰囲気の持ち主ではありましたが、この国では彼は私と似たような立場にあるので自然と大人たちの求める自分を演じてしまうところがあったのかもしれません。己を殺すというものには私も慣れてしまいました。

「う~む。最近のあれは少し奇行が目立つといいますか……貴方様にこのようなことをお伝えするのも如何なものかと思いますが、女遊びを覚えてしまいましてな」
「えぇ、そのお噂は私の耳にも……何か悩みを抱えていなければいいのですが」

 私は王女という立場上、お付き合いするお相手選びには最大限、気を使わなければなりません。
 この地位を目当てに知己を得ようとするものが少なからずいる世界に身を置いているのです、彼の立場であれば気軽に悩みを相談できる相手などそう多くもないでしょう。

 幼いころ、私もメレディスが居なければ辛い場面が何度もありました。今は人前でのダンスだけが苦手ですが、子供のころの私は人見知りが激しく、式典などで衆目にさらされることすら苦痛でしかありませんでした。しかし彼女が手を引いてくれることで少しずつ人前にも出られるようになり、彼女が背を押してくれたことで自信を持てるようにもなりました。
 ですがミシェルの周囲でそのような存在を耳にしたことはありません。メレディスの新しい婚約者の方――翠緑の勇者と呼ばれる方とは親しくされていると聞き及んでおりますが、ミシェルの何処か孤独をまとった雰囲気を癒せる方がそうそう現れるとは思えません。

「彼女とも婚約者殿とも相変わらず親しくはしているようなのですが年を重ねるにつれ、我が一族特有の賢しさといいますか……相手に感情を読ませなくするのが上手くなりましてな。私が聞いても躱されてしまうようになってしまいまして」
「お話しする機会がありましたら、私からもそれとなく聞いておきましょう」
「よろしくお願いします」

 話し終わると同時に曲が終わったので礼をして、おじ様と別れます。
 気になることができましたが、今は次の曲へのお誘いを受けたので今日はこれを最後と決めてステップを踏むことにしました。
 三人目とのダンスを終えたところで、喉の渇きを癒すために給仕を探していると先ほどのーー最初に踊った嘴の仮面の男性がワインの入ったグラスを渡してくださいました。

「お楽しみいただけているようで何よりです」
「それが今日の目的ですもの。でも流石に普段はこんなに踊らないせいもあって、少々疲れてしまいましたわ」
「ふふっ。では、今夜の思い出にこちらを受け取っていただけますか?」

 そういって彼が差し出してきたのは一輪の赤い薔薇でした。よく見れば先ほどまで彼の胸を飾っていたもののようです。

「今日この場所で、私という男と出会ったのだという記憶として貴女に受け取ってほしいのです」

 甘く蕩けるような声音に、差し出されるがまま私は薔薇を受け取ってしまいました。
 きっと仮面がなければ真っ赤に染まってしまったこの頬を見られてしまっていたでしょう。
 今までに求婚されたことは幾度となくありましたが、このような感情は初めてでした。きっとこれが恋というものなのでしょう。
 慣れない種類の熱に浮かされ、ぼうっとした頭のまま彼と別れの挨拶を済ませると、どうにか探し出したおじ様に挨拶を済ませ仮面舞踏会の場を後にしました。

 私は城に帰ってすぐ、彼にいただいた薔薇が枯れてしまわないよう宮廷魔術師に頼み加工を施して貰うとガラス容器に入れ大切に保管することにしました。
 嫌なことがあったとき、辛いことがあったとき、その薔薇の花を眺めると彼との時間を思い出すことができるからと。

*****

「ふふふっ、今夜も赤薔薇の君に逢えるといいわね」
「もうっ、違いますってば!」

 あの仮面舞踏会からしばらくたった後、私はまた別の仮面舞踏会に参加しておりました。
 今夜の主催はロザリー公爵――いま一緒にいるメレディスのお父様です。なんでも平民の生まれであった勇者エリアスに社交の雰囲気を感じさせるために企画したそうです。先ほど少しお話をさせていただきましたが、真面目で誠実そうな男性でした。

 今回の舞踏会には、もしかしたらあの時の彼にまた会えるのではないかと参加したのですが、私が大事に保管している薔薇がきっかけでちょっとした噂が立ってしまっているのです。
 王女の心を射止めた【赤薔薇の君】というのがそれです。侍女に話した内容に少々脚色が加えられてしまったものなのですが、簡単に説明するなら私の色恋沙汰です。

「それで? どのような男性なの?」
「どのようなって、そんな……彼とは一度お会いしただけですし」
「あらあら。ちゃんと思い出さないと会場に彼がいても気付かないで終わっちゃうわよ?」
「うぅっ、それは困りま……いえ、えっと」
「照れるなてれるな。仮面で貴女がどこの誰かだなんてわかる人いないんだから、今日のドレスと同じでガンガン攻めちゃいなさい」

 今日のドレスも前回と同じく、私がふだん好むものとは違った色合いのものです。赤地に金糸で刺繍を施したいつもでは絶対に選ばない華美なデザインで、いま王都で流行のシルエットをしたドレスです。
 スカート部分の布の量が今までのドレスよりも多いため結構重いのですが、オシャレは我慢が大事だとメレディスも言っていたので頑張っています。
 そして今日の仮面も前回と毛色は違いますが猫です。髪の結い方は前回とそこまで変えていないので彼が私に気づいて誘ってくださればいいのですが……。

「あら、さっそく一人来たわね」

 メレディスと談笑していると頃合いを見計らって、一人の男性が近づいてきました。
 羽根やレースで飾られた仮面をつけたかたで、目を奪われる美しい金髪をしています。胸元にはやはり赤い薔薇が飾られていて、先日の薔薇とは違う子ぶりの品種を何輪かリボンと共に編み込んでいるようです。
 また彼に逢えた――その感情がメレディスには筒抜けだったみたいで、彼が私に話しかけやすいよう一歩さがってくれました。

「またお会いできましたね」

 蕩けるような低くて甘い声と共に彼は私に手を差し出してきました。待ちわびた彼からダンスのお誘いです。
 私は迷うことなく彼の手を取り、ダンスの輪の中へ向かいます。

「今宵のドレスは先日とは随分と印象が違いますね?」
「少し派手過ぎましたでしょうか?」
「いえ。先日のドレスに比べると情熱的に感じましたので、お気を悪くされたのなら申し訳ない」
「いいえ、お気になさらず。ドレスの流行というのは難しいので私も試行錯誤中なのですよ」

 確かに今日のドレスは少々攻めすぎたかもしれません。彼に頂いた赤薔薇が強く心に残っていたのもあったのでしょう。
 今の流行は胸元を強調するかのようなデザインのドレスで、私は余り肌を出し過ぎないよう仕立て屋とも話したのですが、もしかしたら彼の好みではなかったのかもしれません。
 男性と女性では美の基準にも差異があるようですから難しい話です。ですが彼の美しい口元は緩く弧を描き、

「どのようなドレスでも貴女が身につければ流行など関係なく、全てが貴女の魅力を引き立てるものとなりますよ」
「相変わらずお上手ですのね」
「貴女の心を独占できるのならば」

 彼のその言葉にドキリと胸が高鳴る。先日は仮面に隠れてしまい見えなかった私と同じ瑠璃色の瞳には強い熱が籠っていて、私には彼が誰なのかが判ってしまったのです。

「貴女への想いは日に日に募るばかりだ」

 腰に回された腕に引き寄せられ、私の耳元で甘く低い声が響きます。

「貴女に会えなかった日々は苦痛で胸が張り裂けそうだった」

 少し離れ再び彼と目が合うと少し悲しそうな表情が窺えました。 

「ですが夜空に輝く月のように手が届かない」

 瑠璃色の瞳というのはローレッタでも聖王家の血を色濃く引くものにしか現れない色です。
 聖王家では長年にわたり近親婚が続けられてきました。彼のお婆様も私の祖父の妹にあたりますし、私の母は彼にとっての叔母になります。

 順当にいけば彼は私の婚約者候補の最有力者になるはずなのですが、今までずっと王家よりの打診を断り続けているのも彼なのです。
 理由は分かりませんが彼にも何か事情があるのでしょう。もしかしたら普段から女性に対してこのような言動をよくしているだけかもしれません。
 ですがそれを念頭に置いたとしても、彼のどこか寂し気な雰囲気は消えず、私の心にも強いしこりのようなものが残りました。

 そして別れ際、彼は今宵も私に薔薇を差し出してきました。薔薇は三輪、フリルのような花弁が美しい赤薔薇です。

*****

 あの舞踏会から暫くの時間が経ち、リンデン帝国で邪竜復活の儀が執り行われたという噂が流れ始めたことを皮切りに、私を取り巻く環境は少しずつ変化をみせていきました。あの日以来、私は彼に一度も会えておりません。
 今までの華やかさが嘘かのように聖王国は暗い影を落とし、諸侯たちの意見も二分され、メレディスの父君である聖騎士団長のレックスも度重なる敗戦に疲れを隠しきれていない状況です。

 女の身という事で私は国内でも戦乱に巻き込まれない地に疎開させていただけるようなのですが、その準備もままならないまま月日は過ぎ、ついに帝国軍は王都の北方にあるリリエンソール渓谷にまで迫ってきています。
 南方のロザリー要塞も間もなく攻め落とされるのではないかと噂され、もう逃げ道は残されてはいないでしょう。

 この人生もあと少しなのかと諦めにも似た感情が湧きましたが、私に出来ることといえばハール神に祈りを捧げることくらいしかありませんでした。

「王女殿下、リリエンソール家のミシェル様がお見えです」
「えっ……ミシェルが?」
「ことは急を要するとのことですので、お召し替えを」

 そう言いながら侍女が用意してくれたのは簡素な衣類とフード付きの外套、歩きやすそうなブーツでした。
 手伝ってもらいながら急いで着替えを済ませ、ミシェルと対面すると彼もまた普段とは違った装いをしています。

「フェイス様、これよりこの地を脱出いたします。私と他数名の護衛しか用意できなかったことが非常に心苦しいのですが、この命に代えても貴女様をお護りすると誓いましょう」

 私の前に跪きミシェルが頭を垂れると、彼の持つ美しい金糸がゆったりと流れました。この金糸を、私はつい最近にも見たことがありました。
 強い意志を宿した瑠璃色の瞳が真っすぐにこちらを見据え、やはり赤薔薇の君は彼だったのだと確信します。

「必要なものは全てこちらの鞄に用意してございます」
「わかりました。それとあの容器を持ってきてくれるかしら?」

 侍女に渡された鞄の中身を簡単に確認すると、私は部屋に飾っていある彼に頂いた薔薇を加工したものを容れているガラス器を指し示しました。
 万が一、割れたりしないようにと布で包んで貰い鞄に詰めると、ミシェルはそれをただ静かに見守ってくれていました。

「さぁ、参りましょう」

 あの日、あの夜――舞踏会でダンスに誘ってくれた時のように手を差し出され、私は迷わずその手を取ったのでした。
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